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回向したまへる願を須(もち)ゐて [『教行信証』「信巻」を読む(その142)]

第14回 金剛の志

(1) 回向したまへる願を須(もち)ゐて

三心釈のなかの欲生釈のつづきで、善導『観経疏』から引かれます。

光明寺の和尚(善導)ののたまはく、「また回向発願して生るるものは、かならず決定して真実心のなかに回向したまへる願を須(もち)ゐて得生の想(おもい)をなせ。この心深く信ぜること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行人等のために動乱破壊(はえ)せられず。ただこれ決定して一心に捉って正直に進んで、かの人の語(ことば)を聞くことを得ざれ。すなはち進退の心ありて怯弱(こうにゃく)を生じ廻顧(えこ)すれば、道に落ちてすなはち往生の大益を失するなり」と。以上

この文もすでにいちど引用されています(第7回、5)。善導の三心釈(これは『観経』の三心すなわち至誠心・深心・回向発願心の注釈です)が長く引かれるなかで、回向発願心釈のなかに出ていました。ここでそれがもういちど引かれていますのは、親鸞は『大経』の欲生心と『観経』の回向発願心は本質的に同じと見ているからです。そこでも言いましたように、親鸞は例によって独自の訓点により文意をコペルニクス的に転回しています。

通常の訓点によりますと、「また回向発願して生るるものは、かならずすべからく決定真実心のうちに回向し願じて、得生の想をなすべし」となり、往生したいと願うものは、かならず真実心により回向し発願しなければならないという意味です。ところが親鸞は上のように「須」を「もちゐる」として、真実心で回向し発願するのは如来であり、われらはそれを「須ゐ」させていただいて往生するのであると聞受しています。

親鸞は経論釈を目で「読む」のではなく耳で「聞く」のですが、彼にはこのように聞こえたということです。

親鸞にはどうしてこのように聞こえるのかを斟酌しますと、われらが真実心で回向発願しなければならないとしますと(そのようにこの文を聞きますと)、「得生の想をなせ」と言われても、どうしてもそこに「ほんとうにそうか」という疑いの余地が残るからです。如来が真実心でわれらの往生を回向発願してくださると聞いてはじめて、もう間違いなく得生できると頷けるのです。


タグ:親鸞を読む
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