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無生の生 [「親鸞とともに」その83]

(7)無生の生

伝統的な往生観では、臨終において阿弥陀如来が多くの菩薩衆とともに念仏の行者のもとに来り迎えて、浄土へと連れて行ってくださるというイメージです(その様子は『観無量寿経』に記され、それが来迎図に描かれて多くの人々の心に焼き付いていきました)。このイメージでは、往生とは死んだ後に、ここではないどこか(アナザーワールド)に往き生まれることです。すぐ気づきますように、この往生観では、浄土に往生することは、輪廻転生において天に生まれ変わることとその構図において本質的な違いはありません。天に生まれ変わる代わりに、浄土に生まれ変わるだけではないかと思われます。このような問題意識は早くからあり、曇鸞は『論註』でこう言っています、「かの浄土はこれ阿弥陀如来の清浄本願の無生の生なり。三有虚妄の生のごときにはあらざる」と。浄土に往生することは、輪廻転生とはまったく異なるのだということです。

親鸞はこの問題意識を受け継ぎ、「無生の生」としての往生について、先の『唯信鈔文意』に見ましたように、「すなはち往生すといふは不退転に住するをいふ。不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まるとのたまふ御のりなり」と述べています。往生とは、ここではないどこかへ往き生まれることではなく、信心の「いまここ」で正定聚不退すなわち「かならず仏となるべき身」となることだと。この正定聚不退となることについて、親鸞はさらに摂取不捨というキーワードをもちいて語ります。「この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光に入りぬれば、正定聚の位に定まるとみえたり」(『尊号真像銘文』)というように。

摂取不捨とは真実信心の行者を本願のひかりのなかに「おさめとり、むかへとる」ことで、もっともよく知られていることばとしては、『歎異抄』第1章にこうあります、「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をはとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」と。これらのことばから、正定聚の位につくことと不退となること、そして摂取不捨されることはみな同じことを指しており、そしてそれが往生に他ならないのであるとはっきり受けとることができます。


タグ:親鸞を読む
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