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信心とは(つづき) [「『おふみ』を読む」その31]

(6)信心とは(つづき)

蓮如のこころのうちを推しはかってみますと、問いのなかで「なにとて、わずらわしく、信心を具すべき」と言い、それに答えて「いまのごとくにこころえそうろう」こと以外に信心はありませんとあっさり言っていますのは、われらがこちらから何か信心なるものを用意しなければならないわけではないということでしょう。蓮如は「おふみ」の中で、よく「なにのようもなく」と言いますが、それは「わがはからいにて」と反対の意味のことばに違いありません。たとえば、こんなふうです、「他力信心のおもむきというは、なにのようもなく、わが身はあさましきつみふかき身ぞとおもいて、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて」(2・8)。

蓮如は1・4の前段においてこう言っていました、「わがちからにてはなかりけり、仏智他力の御さずけによりて、本願の由来を存知するものなり」と。そこから考えてみますと、信心とはこちらから付け加えるものではなく、本願そのものの力でわれらに届けられるのだと言いたいのだろうと思うのですが、残念ながら、そのあたりがはっきり伝わってくるとは言い難い。他力の信心が肝要と言うからには、そのありようがもっと明確に伝わるように言わなければと思うのです。

しばしば「本願のいわれを聞く」といったことばに出合います。「本願の由来を存知する」も同じ趣旨でしょう。さてしかしそれを「本願を信じる」ことであるとしてしまいますと、「他力の信心」の輪郭がぼやけてくるのではないでしょうか。善知識から本願のいわれをよくよく聞き、それを自分のこころに納得することが信心だとしますと、どうしてそれが他力の信心なのか。親鸞はもっと端的に「本願に遇う」と言います、それが本願を信じることだと。本願のいわれをよく聞いて、それを信じるのではありません、本願に直に遇うこと、それが信じるということです。招喚の勅命が聞こえて感動すること、これが信じるということです。


タグ:親鸞を読む
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