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諸有の群生を招喚したまふの勅命 [『教行信証』「信巻」を読む(その130)]

第13回 群生を招喚したまふ

(1) 諸有の群生を招喚したまふの勅命

第十八願の三心すなわち至心・信楽・欲生の至心と信楽の注釈が終わり、これから欲生釈がはじまります。

つぎに欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり。すなはち真実の信楽をもつて欲生の体とするなり。まことにこれ大小(大乗と小乗)・凡聖(凡夫と聖者)・定散(定善と散善)自力の回向にあらず。ゆゑに不回向となづくるなり。しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没(ひょうもつ)して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。このゆゑに如来、一切苦悩の群生海を矜哀(こうあい)して、菩薩の行を行じたまひし時、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として(第一として)大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに、利他真実の欲生心をもつて諸有海に回施したまへり。欲生すなはちこれ回向心なり。これすなはち大悲心なるがゆゑに、疑蓋まじはることなし。

至心釈と信楽釈をふり返っておきますと、まず至心とは如来の真実の心であり、それが群生海に回施されるとされました。次に信楽とは如来の信心(疑いのない澄んだ心)であり、これまた群生海に回施されると述べられました。このように、われら群生には真実の心も真実の信心もなく、それらはみな如来からたまわったものであることが明らかにされました。そして次に欲生心です。親鸞はこれを回向心と言いかえていますから、これはただ単に浄土に生まれたいと願うことではなく、己のもつ功徳のすべてを「回らし向けて」自分と衆生がともに往生することを願うという意味です。この回向に力点があることを頭に置いて読まないと親鸞が言っていることがよく見えなくなります。

さて、信楽釈において冒頭に「信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無礙の信心海なり」とあったのと同じように、ここでも真っ先に「欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり」と言われます。信楽が「われらの」信楽ではなく「如来の」信楽であるように、欲生も「われらの」欲生ではなく「如来の」欲生であるということです。それを「すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり」と言っているのです。


タグ:親鸞を読む
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