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弥陀智願の回向の [親鸞の和讃に親しむ(その90)]

(10)弥陀智願の回向の

弥陀智願の回向の 信楽まことにうるひとは 摂取不捨の利益ゆゑ 等正覚(とうしょうがく)にいたるなり(第25首)

弥陀の大悲の回向にて、まことの信をえるひとは、ひかりのなかに包まれて、等正覚を生きるなり

本願力により本願の信(気づき)を得た人は、摂取不捨の利益にあづかり、等正覚の位につくことができると詠います。これまで信心(本願の気づき)を得た人のありようを表すことばとして摂取不捨、正定聚、不退などいろいろ出てきましたが、ここで等正覚がはじめて登場します。正覚と同じ意味でつかわれる場合もありますが、ここでは正覚の一つ手前を指します。菩薩道に52階位あり、第52階位が仏の正覚、第51階位が等正覚ですから、あと一歩で仏という菩薩としては最高の境位のことです。しかし、本願の信をえたそのときに、菩薩の最高階位である等正覚につくというのは、大乗仏教の菩薩道の常識からして途方もないことと言わなければなりません。菩薩はさまざまな修行を積むことで一歩一歩その階位を上げていくと信じられているのに、いきなり等正覚に至ると言うのですから。

この違いを親鸞は「竪と横」というコントラストで示します。

竪に進むか、横にひとっ跳びするか、ということですが、これを時間的に言い表しますと、「これから」と「もうすでに」となります。前を見据えて「これから」一歩一歩進んでいこうとするのと、気がついてみると「もうすでに」跳び越えてしまっていたという違いです。親鸞お好みの「涅槃のかどに入る」(「涅槃のかど」が等正覚です)という言い回しをつかいますと、「これから」涅槃のかどに入ろうとするのと、気づいたときには「もうすでに」涅槃のかどに入ってしまっていたという違いになります。これが自力と他力のコントラストです。「涅槃のかど」を前に見て、「よし入るぞ」と決意して進んでいくのが自力(竪)で、ふとふり向くと後ろに「涅槃のかど」があり、「ああ、もう入ってしまっていたのか」と気づくのが他力(横)です。「涅槃のかど」を前に見ている人からしますと、それははるか彼方にありますが、ふり向いて「涅槃のかど」に気づいた人としますと、それはいきなりのことです。

(第9回 完)


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