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ところの領家・地頭・名主の御はからひども [『末燈鈔』を読む(その209)]

(14)ところの領家・地頭・名主の御はからひども

 親鸞は念仏をとどめようとするのは「ところの領家・地頭・名主」たちであることを見誤っていません。そして、それには「よくよくやうあるべきこと」(「やう」とは「わけ」でしょう)と言うのです。その「わけ」とは直接的には経釈に「五濁悪時には仏法に怒りを抱き、それを破壊しようとするものが現れる」と述べられていることを指しますが、親鸞が「ところの領家・地頭・名主」が念仏をとどめようとしていると言うからには、そこにもう一歩踏み込んだ了解があったに違いないと思います。
 「ところの領家・地頭・名主」とはその土地の支配者、要するに「年貢を取り上げる側にいるものたち」です。その人たちとしては、「年貢を取り上げられる側のものたち」がそのことに不満を持ち、反抗的な態度を示すようになるのが何より怖い。そのことを明瞭に意識していなくとも、世の支配者としての本能がそのような兆候を敏感に察知し、おおごとになる前にその芽を摘み取ろうとするものです。
 彼らにとって、念仏はかなり危険な匂いがしたに違いありません。なにしろ弥陀の本願は「いし、かわら、つぶてのごとくなるわれら」(『唯信鈔文意』)のためにあるのですから。
 さてしかし親鸞はそのような認識の上に立って、しかも「かのさまたげをなさんひとをばあはれみをなし、不便におもふて、念仏をもねんごろにまふして、さまたげなさんを、たすけさせたまふべし」べしと言う。これをどう理解すればいいのでしょう。イエスの「敵を愛し、迫害するもののために祈れ」(『マタイ伝』第5章)を彷彿させますが、これはぼくらの普通の感覚をはるかに超えているように思います。
 自分の行こうとする道を理不尽に妨げる人がいたら、それに怒りを抱き、その人と戦ってでも自分の行く手を確保しようとするのではないでしょうか。


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