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物語られたから事実となる [『ふりむけば他力』(その107)]

(3)物語られたから事実となる

 事実が「ほんとう」で、物語は「うそ」という感覚に戻ります。この感覚が浄土の教えについて「霧の中にいるような」思いにさせている一因です。で、この感覚から自由になるために、互いに「これは〈わがもの〉である」と宣言しあっているのはひとつの物語の上のことであると考えてきたのです。これはぼくのもので、あれはきみのもの、と互いに言いあって誰も怪しみませんが、それは実はことば上の約束事(ヴィドゲンシュタイン言うところの「言語ゲーム」のルール)として昔から語り継がれてきた物語にすぎないと。そうだとしますと、われらは「物語を信じて」生きているのですから、物語であるからと言って「うそ」と考える根拠は何もありません。「うそ」どころか、その物語の上に倫理も法律も国家も成り立っているのです。
 どうやら、こちらに「ほんとう」の事実があり、あちらに「うそ」の物語があるというようにはなっていないようです。
 事実と物語の関係について一から考え直す必要があります。まず事実があって、それについて物語られる、のでしょうか。一応そう考えていいように思えます。例えば、まず釈迦という人がいて、その人についてさまざまに物語られてきたと。さあしかし、そう考えた途端、さまざまな疑問が出てきます。当時のインドには無数の人がいて、その人たちにまつわる無数の事実があったはずですが、そのほとんどすべては歴史の闇のなかに消えてしまい、釈迦という人物については特筆大書されて語り伝えられてきました。それに釈迦その人についても、生まれてから死ぬまで無数の事実があったはずですが、その中から取捨選択されてひとつの釈迦像が描かれてきたわけです。それがわれらに語り伝えられ、それ以外の無数の事実は歴史の藻屑となってしまったということです。
 それはいったいどうしてでしょう。言うまでもなく、当時の多くの人たちに釈迦の特徴的な言動が注目され、それについて言い伝える必要が感じられたからです。そして後代の人たちもそれに大きな関心を寄せ、それをまた後の人たちに語り伝えたからです。つまり釈迦という人は、数知れぬ人たちに語り伝えられたから(物語られてきたから)事実になったということです。事実だから物語られるのではなく、物語られたから事実として残ったのです。

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