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難思議往生 [「『証巻』を読む」その8]

(8)難思議往生

さて、第十一願に「国のうちの」人天、あるいは「国のうちの」有情とあるのに引っかかる人がいるかもしれません。現生に信心を得て正定聚になるとすると、まだ浄土には往生していないのではないか、なぜ「国のうちの人天、定聚に住し」なのかと。これは第十一願だけでは了解できず、第十八願とつなげることで明らかになることですが、現生において信心をえて正定聚(等正覚)となったとき、「すでにつねに浄土に居す」(『末燈鈔』第3通)ことをあらためて確認しておきたいと思います。第十八願の成就文に「かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す(願生彼国、即得往生、住不退転)」とありますが、これは本願を信じ、かの国に生まれたいと思ったそのとき、すでに浄土にあるということです。

親鸞はこの文について『唯信鈔文意』で次のように解説しています、「願生彼国は、かのくににうまれんとねがへとなり。即得往生は、信心をうればすなはち往生すといふ。すなはち往生すといふは、不退転に住するをいふ。不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まるとのたまふ御のりなり。これを即得往生とは申すなり。即はすなはちといふ。すなはちといふは、ときをへず、日をへだてぬをいふなり」と。このことばから明らかでしょう、現生に信心を得て正定聚となったものは、もうすでに浄土に往生しているのです。ここから了解できますのは、浄土に往生するとは、いま生きているこの娑婆を離れて、どこか別の世界へ往くことではないということです。「いまここ」でこれまでの生き方とは異なり、正定聚としての新しい生を生きること、これが難思議往生(※)です。

ときどき往生には「即得往生」と「難思議往生」の二つがあると言われることがあります。前者は信心のときに正定聚になることで、後者は臨終に浄土に旅立つことであるとされます。これは親鸞の現生正定聚の思想と伝統的な往生思想の妥協をはかったものと言うべきですが、これではしかし親鸞浄土教の革新性が損なわれてしまいます。親鸞にとって、信心のそのとき「摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す」ことが即得往生であり、そしてそれが難思議往生に他なりません。だから「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」です。


タグ:親鸞を読む
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