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如来がわれらの内に [「親鸞とともに」その105]

(8)如来がわれらの内に

如来がわれらを外から包みこんでくれるというだけでは、その確かな証拠がありません。如来は同時にわれらの内にあるからこそ、その存在が確かなものとなるのです。源信は「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障(さ)へて、見たてまつることあたはずといへども、大悲倦むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ」(往生要集)と言いますが、誰かが「見ることができないのに、どうして照らされていると言えるのか」とケッチンをつけてきたらどうでしょう。僭越ながら源信に代わって答えましょう、「如来はわが外から摂取してくれるだけでなく、同時に、内にあるからこそ、大悲の光明につねに照らされているとたしかに感じられるのです」と。

如来はわれらの外にありながら、同時に、内にあるということは、如来とわれらは一ではないが異でもないということ、不一不異ということです。『安心決定鈔』に傅大士(ふだいじ)という唐代の居士のことばとして「朝な朝な仏とともに起き、夕な夕な仏をいだきて臥す」というのが出てきますが、われらと仏が一体となっている様子が見事に表されています。われらのいるところに仏がいて、仏がいるところにわれらがいます。この一体感はキリスト教においてもパウロの次のことばによく出ています、「われキリストとともに十字架につけられたり。もはやわれ生くるにあらず。キリストわが内にありて生くるなり」(「ガラテヤ人への手紙」)。そのように、本願の信心を得たとき、もはやわれらが生きるのではなく、如来がわれらの内にあって生きているのです。

これが如来に「生かされる」ということですが、さて問題は、このように如来に「生かされている」からこそ、真に自由に「生きる」ことができるのではないかということです。如来がわれらの内にあって生きているということは、もはや「わたしの意思」によるのではなく「ほとけの意思」によって生きるということですが、それがなぜ自由に生きることになるのか。「南無阿弥陀仏」とは「わたしは阿弥陀仏に帰命いたします」という表明ですが、これは「わたしは阿弥陀仏の意思にしたがいます」と言うことに他なりません。これは一見、自由の全面放棄に見えますが、しかし実はそれが真の自由であるということ、これが問題です。


タグ:親鸞を読む
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