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6月6日(木) [はじめての親鸞(その160)]

 「臨終を待つことはありません、来迎をたのむこともありません」―ここにはこれまでの浄土教に対するはっきりした否定があります。これまでの浄土教にとって臨終が勝負であり、そのときに阿弥陀仏の来迎があるかどうかにすべてがかかっていたのです。それに対して、親鸞は臨終の来迎を待つまでもなく、信心が定まったそのときにすでに往生が定まっていると言います。そのときにすでに来迎されているのだと。
 身は穢土にあっても、心はすでに浄土にある。
 親鸞は、臨終を待ち来迎をたのむのは諸行往生であり、「いまだ真実の信心を得ていません」と言います。それは自力の行者のことだと。親鸞は伝統的な浄土教の限界を「自力の念仏」としてはっきりと見据えていたのです。では、臨終を待ち来迎をたのむのは自力であるというのはどういうことでしょう。それはどうして真実の信心を得ていないと言われるのでしょう。
 問題は「死後の世界」をどのように見るかという点に関わります。
 仏教にとって死は元々最大の関心事でした。生・老・病・死の四苦の中でも死の重さは第一だと言えます。「生きていることがどれほど素晴らしく、どれほど美しくても、いずれ死が待っている」ことが、どんな善きものをも一挙に色褪せさせます。所詮みな死刑囚なのだ、ただその執行がいつなのかが分からないだけ、という思いは人々をおののかせます。この不安、恐怖からどのようにして抜け出せるか―釈迦が悟りを求めて修行の道に入ったのもここに最大の動機があると言えるでしょう。そして釈迦は悟りをひらくことができ、死の不安から解脱できた。

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