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われらひとり一人のなかにプーチンが [「信巻を読む(2)」その11]

(11)われらひとり一人のなかにプーチンが

この世界はまさに五濁悪世と言わなければなりません。とりわけこのところのウクライナの状況は、その映像を観るのがほんとうにつらいものがあります。少し前はトランプという人の顔がニュースで流れるたびに心が重く沈み込んだものですが、いまはプーチンという人の顔を見ると心が一気にしんどくなります。彼はわれらのなかにある醜いものをこれでもかと見せつけ、まさにこの世は五濁悪世であることを如実に示してくれています。それなのになぜ「娑婆は娑婆のままですでに浄土」などと言えるのか、この世界のなかでただ本願を信じるだけでどうして救われるのか。そんな教えはとても信じられないということ、これが甚難信ということです。

プーチンという人をとんでもない悪党であり、しょせん自分とは縁のない人間であると見ているだけでしたら、あるいはこの世は五濁悪世であると言いながら、自分をどこかその埒外においているのでしたら、あの悪党を退治して世の中をよくしなければという思いが出てくるだけでしょう。しかしよくよく考えなければならないのは、われらひとり一人のなかにプーチンがいるのではないかということです。ニュース映像でプーチンの顔を見るたびになぜこうも心が重く沈み込むのかと考えてみますと、彼のなかにあるものは、われらひとり一人のなかにもあると感じるからではないでしょうか。ただ幸いにもそれが外に出ずに済んでいるだけではないでしょうか。それを見せつけられているように感じられて、彼の顔を見てしんどくなると思うのです。

われらのなかにプーチンがいるということは、われらが自分でそう思うというよりも、プーチンを「悪党め」と罵るとき、どこかから「そういうお前はどうなのか」という「こえ」が聞こえてくるということです。「お前は彼と無縁だと言えるのか」という「こえ」が突き刺さってくるのです。それは「ほとけのこえ」であり、そのときわれらは「ほとけ」に遇っています。そしてそのとき「ほとけ」の「いのち、みな生きらるべし」という「ねがい」に遇っているのです。「お前も悪党である」という「こえ」は、「そんなお前を救おう」という「こえ」と一緒に聞こえてきます。かくして「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」でありながら、「すでにつねに浄土に居す」という摩訶不思議なことが起るのです。


タグ:親鸞を読む
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