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とても地獄は一定すみかぞかし [『歎異抄』ふたたび(その30)]

(7)とても地獄は一定すみかぞかし

 「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ」と述べたあと、その理由として、念仏以外の行で仏になることができるのでしたら、だまされたという思いもおこることでしょうが、どんな行もおよびがたい身ですから「とても地獄は一定すみかぞかし」と述べられます。もし本願念仏がありませんと、わが身はどんな行にもたえられませんから、「とても地獄は一定すみかぞかし」というのです。先の「念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもつて存知せざるなり」にはガツンとやられましたが、このことばもまたはらわたに染み渡ります。「とても地獄は一定すみか」と思うからこそ、「遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり」(『教行信証』序)という慶びがわきあがってくるのです。
 さて最後の第3段です。

 弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと云々。

 弥陀から釈尊へ、釈尊から善導へ、善導から法然へ、法然から親鸞へと本願念仏という真理が伝えられてきた(リレーされてきた)と述べられています。それを逆にたどりますと、わたし親鸞が申すことが嘘偽りでないのは、それを法然聖人から聞いたからであり、法然聖人の言われていることがまことであるのは、それを善導大士から聞かれたからであり、そして善導大士が言われていることが虚言でないのは、それを釈尊から聞かれたからであり、さらに釈尊が言われていることが真実であるのは、それを弥陀から聞かれたからに他ならない、となります。
 これは何を言っているかといいますと、真理はひとつであり、それが連綿とリレーされてきて、いまわたし親鸞に届いたのだ、ということです。

タグ:親鸞を読む
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