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あんな悪いヤツが [『末燈鈔』を読む(その32)]

(11)あんな悪いヤツが

 「オレほど悪いヤツはいない」と思う、これは「機の深信」とよばれます。「どんなに悪いヤツも隔てなく往生させてもらえる」と思う、これが「法の深信」です。信心には必ずこの二つの相があると言うのです。機の深信のあるところ、必ず法の深信があり、法の深信のあるところ、必ず機の深信がある。これは信心の本質をズバリついているのではないでしょうか。
 確認しておきたいのは、どちらの信も、自分で得られる信ではなく、向こうからやってくるものだということです。機の深信については先回述べました。「オレほど悪いヤツはいない」と本気で思うのは、向こうから「オマエほど悪いヤツはいない」という声が聞こえて心に突き刺さるからでした。
 法の深信も同じです。ぼくらの心は「どんな悪いヤツも往生できる」ことに激しく抵抗します。善悪のものさしは「あんな悪いヤツが往生できるなんて許せない」と主張して譲りません。そんなことになれば世の中の秩序が根底から崩れると思うからです。だから「どんな悪いヤツも往生できる」と自分から信じることはありません。
 でも、「オマエほど悪いヤツはいない」という声が胸に突き刺さるのと同時に、「どんな悪いヤツも往生できる」という声が届いて心を温めてくれる。
 世の中にはいろいろな不思議があるでしょうが、これにまさる不思議はあるでしょうか。大乗仏教のエッセンスは「煩悩すなわち涅槃」にあると言われますが、あまりに高尚すぎてその不思議さがいまひとつピンときません。「オマエほど悪いヤツはいない」が「どんなに悪いヤツも隔てなく往生できる」の方は、その不思議さが不思議なままに胸に沁みるのです。


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