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現当二益(げんとうにやく) [「『証巻』を読む」その20]

(9)現当二益(げんとうにやく)

ことばの意味としまして涅槃とは煩悩を断じた境地を指しますから、煩悩を断じないまま涅槃を得るというのはあからさまな矛盾と言わなければなりません。そこで曇鸞はその矛盾を避け、「涅槃分を得」としたと思われます。親鸞は信心をえて正定聚の数に入った人を「仏とひとし」と言いますが、それと同じように「涅槃にひとしい」という意味で「涅槃分を得」と言ったのでしょう。実際に涅槃に至るのは「わたしのいのち」が終わった後のことですが、「ほとけのいのち」に遇うことができた人はもう涅槃に至ったにひとしいということです。

ここであらためて現生で正定聚になることと来生に涅槃(滅度)に至ることの関係について考えておきたいと思います。浄土真宗の教学では現生で得る利益を「現益(げんやく)」、来生で得る利益を「当益(とうやく、当来の利益)」と言い、二つの利益を区別しますが、現生で得る利益は問題ないとして、さて来生の利益とはどういうことでしょう。そもそも来生の利益などというものは存在するのでしょうか。存在するとして、どこに存在するのでしょう。

いや、もっとそもそもの話として、未来などというものは存在するのでしょうか。たとえば「明日は存在するか」と尋ねられたらどうでしょう。誰でも「そりゃ、あるだろう。明日がないとしたら大変だ」と答えるに違いありません。さてしかし「では明日はどこにあるのか」と問われたらどうでしょう。「どこと言われても困るが、今日の次の日として、今日が終わるとやってくる」とでも答えるしかありません。しかし、今日が終わってやってくるのは次の今日であって、明日ではありません。やってくるのはどこまでも今日であり、明日が来ることはありません。

明日はある、これは間違いありません。というよりも、われらは「明日はある」という前提のもとで生きています。しかし明日は今日があるのと同じようにあるのではないことも確かです。今日はいま現にありますが、しかし明日はそうではありません。ではどのようにあるのか。明日は「これから来るだろう」という予測のかたちであります。そしてその予測をするのは今日ですから、明日は今日の予測としてあるということになります。

未来は現在における予測としてのみ存在するということが明らかになりました。としますと、来生の利益とは、来生に利益があるだろうと現生において予測することに他ならず、来生の利益とは言うものの、それは実際のところ現生にしかないということです。現益としての正定聚とは別に当益としての涅槃があると言われますが、現益と当益の二つがあるのではありません。ただ現益があるだけです。

これは何を意味するかといいますと、救いは「いま」にしかないということです。「明日救われるということだってあるじゃないか」と言われるかもしれませんが、それは「明日救われるだろう」と「いま」予測しているのであり、そしてそのように予測していることにおいて「いま」もうすでに救われているのです。

(第2回 完)


タグ:親鸞を読む
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