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雲霧のしたあきらかにして [「『正信偈』ふたたび」その35]

(5)雲霧のしたあきらかにして

しかし、再度しかし、「たとへば日光の雲霧におほはるれども、雲霧のしたあきらかにして闇なきがごとし」と言われます。

ここには、先に上げました源信の有名なことば、「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて、見たてまつることあたはずといへども、大悲倦むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ」と同じ二重逆説の構造が見られます。この源信の文は、まずわたしは弥陀の「ひかり」の摂取のなかにあると述べ、次いで「摂取のなかに〈あれども〉」、煩悩によりその「ひかり」を見ることはできないとつづけます。そしてさらに「見たてまつることあたはずと〈いへども〉」、弥陀の大悲はわたしをつねに照らしてくださると締め括ります。このように二重の逆説でつながっているのですが、親鸞の偈文も同じように、まずわたしは摂取の心光のなかにあると述べ、次いで「すでによく無明の闇を破すと〈いへども〉」、貪愛瞋憎の雲霧がかかっているとつづけます。そしてさらに「たとへば日光の雲霧に〈おほはるれども〉」、その下は明らかでそこに闇はないと締め括っています。

無明の闇は破られた、〈しかし〉煩悩の雲霧がかかっている、〈しかし〉その雲霧の下は明るい、と二重の逆説になっているのです。

「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」もまたこの二重逆説の関係にあると言えます。「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」のなかで生かされている、〈しかし〉「わたしのいのち」は「わたしのいのち」として貪愛瞋憎のなかにある、〈しかし〉「わたしのいのち」はそんな「わたしのいのち」として「ほとけのいのち」に包み込まれている、というように。親鸞はこの関係を和讃でこう詠っています、「罪障功徳の体となる こほりとみづのごとくして こほりおほきにみづおほし さはりおほきに徳おほし」(『高僧和讃』「曇鸞讃」)と。「わたしのいのち」(の罪障)と「ほとけのいのち」(の功徳)は「一ならず(不一)」ですが「異ならず(不異)」です。


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