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サンサーラ [『浄土和讃』を読む(その177)]

(10)サンサーラ

 久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里は、いよいよとなりますとまことに名残惜しいものがあります。ですから、いささか長居したとは思っても、「では、今晩あたりで」とはならないのです、「もう少しは」となります。
 突然ですが、ぼくらの年齢はみな38億歳です。地球上にいのちが誕生したのが38億年前だそうですが、ぼくらのDNAにはそれ以来のいのちの歴史がすべて畳み込まれています。生まれてからはたかだか100年ですが、母の胎内で38億年のいのちの歴史を早回しで再現しているのです(個体発生は系統発生を繰り返します)。だからほんとうの年齢は38億歳です。38億年も娑婆暮らしをしてきたのですから、いよいよおさらばとなりますと名残惜しいのは当然です。
 流転も輪廻もサンスクリットの「サンサーラ」の訳で、「流れる」という意味です。娑婆世界を流れ流れてここまできたなかに多くの喜びがあり、また多くの悲しみもありました。そこからいよいよ去らなければならないのですが、さてこれから往くところがどんなところか分かりません。どこから来たのか分からないように、どこへ往くのかもまたまったく分からない。そこがどんなところか教えてくれる人は誰ひとりいないのですから、不安になるなという方が無理というものです。
 さてでは「南無阿弥陀仏をとなふれば」、「流転輪廻のつみきえて、定業中夭のぞこりぬ」とはどういうことでしょう。思い出したいのが「正信偈」の次の一節です、「惑染凡夫信心発、証知生死即涅槃(惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ)」。これは曇鸞を讃える中に出てくることばですが、迷いの凡夫が信心をえれば(南無阿弥陀仏の声に遇うことができれば)、生死輪廻の世界がそのままで涅槃の世界であるというのです。サンサーラの世界がそのままでニルヴァーナの世界であるという不思議を感じることができると。

タグ:親鸞を読む
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