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回心すればみな往く [「信巻を読む(2)」その144]

(10)回心すればみな往く

先の文は善導の『観経疏』からでしたが、今度は同じく善導の『法事讃』からです。

またいはく、「永く譏嫌(きげん、譏は誹ることで、譏嫌で誹り嫌うこと)を絶ち、等しくして憂悩(うのう)なし。人天善悪みな往くことを得。かしこに到りて殊(こと)なることなし、斉同不退(みな一味平等であり、もう迷いに戻ることはない)なり。なにの意(こころ)かしかるとならば(どうしてそのようになるかと言えば)、いまし弥陀の因地にして世饒王仏(せにょうおうぶつ、世自在王仏のこと)の所(みもと)にして、位を捨てて家を出づ、すなはち悲智(慈悲と智慧)の心を起して広く四十八願を弘めたまふによりてなり。仏願力をもつて、五逆と十悪と罪滅し生ずることを得しむ。謗法(ほうぼう)・闡提(せんだい)、回心(えしん)すればみな往く」と。抄出 

ここでも五逆と謗法と一闡提は他のものたちと何一つ変わることなく、仏願力により往生できることがはっきりと謳われています(斉同不退)。ただ注目しなければならないのが「回心すればみな往く」という一文です。この「回心」とは直接には己の罪を慚愧することですが、ひいては「自力のこころ」から「他力のこころ」に翻ることです。これまでは「わたしのいのち」をひたすら「わが力」で生きなければと思っていたのですが(これが「自力のこころ」です)、いまや「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」に生かされていることに気づくに至りました(これが「他力のこころ」です)。さてこの心の翻りにより何がおこるでしょう。

これまでの生きざまが恥ずかしくなるのではないでしょうか。これまでは「わたしのいのち」を生きようとして「罪悪深重・煩悩熾盛」の生き方をしてきたことに思い至り、そのことに慚愧の念がおこるに違いありません。どう転んでも「これからは何の遠慮もなく自由奔放な生き方をすればいい」といった「造悪無碍」の思いが起こるはずはないでしょう。親鸞はこの問題について関東の弟子たちに宛てた手紙でしばしば語っていますので、それを参照しておきましょう。


タグ:親鸞を読む
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