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「嘘つきのわたし」と「正直なわたし」 [「『証巻』を読む」その98]

(5)「嘘つきのわたし」と「正直なわたし」

さてしかし一人の「わたし」なかに「嘘つきのわたし」と「正直なわたし」がいるというのはどういうことでしょう。あるときは「嘘つきのわたし」で、別のときには「正直なわたし」ということではありません。もしそうでしたら、その人はいわゆる解離性同一性障害(多重人格)で、あるときは「嘘つきの人格」を生き、また別のときには「正直な人格」が出現するということになります。いまの場合はそうではなく、一人の人格のなかに同時に「嘘つきのわたし」と「正直なわたし」がいて、後者が前者に「おまえは嘘つきだ」と囁きかけるということです。さて「わたしは嘘つきです」という言明が真実性をもってなされるとき、その人は「嘘つきのわたし」に違いありませんが、そのとき「おまえは嘘つきだ」と囁きかける「正直なわたし」はどこにいるのでしょう。

ここでまた「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」という図式を持ち出したいと思います(第9回の4参照)。「わたしのいのち」はそれ自体として自立して存在しているのではなく、他の無数のいのちたちと縦横無尽につながりあっていますが、「ほとけのいのち」といいますのはそのつながりの総体です。言ってみれば「ほとけのいのち」という重々無尽の網が広がり、その無数の結び目の一つひとつが「わたしのいのち」というイメージです。その一つの結び目をつまみ上げますと、それに連なって他のすべての結び目がズラズラと上がってきます。「わたしのいのち」は一つの結び目にすぎませんが、しかしそれは他のすべての結び目と縦横無尽につながっているということから言えば「ほとけのいのち」に他なりません。「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」なのです。

さてこの図式で言いますと、「わたしのいのち」が「嘘つきのわたし」であり、そしてその「嘘つきのわたし」に「おまえは嘘つきだ」と囁きかける「正直なわたし」が「ほとけのいのち」です。かくして「嘘つきのわたし」は「嘘つきのわたし」のままで「正直なわたし」です。


タグ:親鸞を読む
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