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その名号を聞きて [『教行信証』「信巻」を読む(その114)]

(6)その名号を聞きて

※事情があり、更新が遅れました。

信楽は如来から賜るものであると述べられましたが、そのことが経典により確かめられます。まず『大経』と『如来会』から第十八願の成就文が引かれます。

本願信心の願(第十八願)成就の文、『経』にのたまはく、「諸有の衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん」と。以上

またのたまはく、「他方仏国の所有の衆生、無量寿如来の名号を聞きてよく一念の浄信を発(おこ)して歓喜せん」と。以上

これらはすでに「信巻」のはじめに引かれていました。それがさらにここで重ねて引用されますのは、信楽は如来から回向されるものであることをあらためて確認するためです。すなわちわれらに名号が聞こえることによって、われらに信心歓喜が起こることを明らかにしようとしているのです。名号については「行巻」において説かれましたが、その要点をここでもう一度確かめておきましょう。法蔵菩薩の四十八願は、それを一言につづめますと、「いのち、みな生きらるべし」という願いです。「どんないのちも分け隔てなく幸せに生きてほしい」という願いですが、この願いはそれがどれほど切実なものであっても、ただ願いとしてあるだけでは力になりません、それが一切衆生のもとに届いてはじめて救いの力となります。

ではどのようにしてこの願いを衆生のもとへ届ければいいのでしょうか、その答えが第十七願とその成就文です。「十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ」と誓われ、「十方恒沙の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳不可思議なるを讃嘆したまふ」とその誓いが成就されたことが述べられます。すなわちあらゆる世界の諸仏如来が阿弥陀仏の名号を称えることで、「いのち、みな生きらるべし」という願いが一切衆生に届けられるということです。かくして本願は南無阿弥陀仏という姿をとってわれらのもとにやってくることが明らかにされました。上の「諸有の衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん」という第十八願成就文は、この第十七願成就文にすぐつながる形で出てくることからしまして、十七願と十八願は一体であることは明らかです。


タグ:親鸞を読む
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