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「『正信偈』ふたたび」その21 ブログトップ

偈文1 [「『正信偈』ふたたび」その21]

第3回 煩悩を断ぜずして涅槃を得る

(1)  偈文1

これまで法蔵=弥陀の大いなる願い(本願)について詠われてきましたが、これから釈迦の讃嘆がはじまります。まずは最初の四句。

如来所以興出世 唯説弥陀本願海 

五濁悪時群生海 応信如来如実言

如来、世に興出したまふゆゑは、ただ弥陀の本願海をとかんとなり。

五濁悪時の群生海、如来如実の言(みこと)を信ずべし。

はじめの二句はまことに大胆不敵な宣言であると言えます。釈迦の教えは弥陀の本願の教えに尽きるというのですから、他の宗派の人から見れば、自分たちの奉じている教えは釈迦の教え、すなわち仏教ではないのかということになり、もう至るところからクレームが雨あられと降ってきてもおかしくありません。しかしこのことは親鸞が勝手に言っているのではありません、『大経』のはじめ(序分)にそう書いてあるのです、「(如来が)世に出興するゆゑは、道教(仏教の教え)を光闡(こうせん、明らかにする)して群萠をすくひ、めぐむに真実の利をもつてせんとおぼしてなり」と。「めぐむに真実の利をもつてせん」の「真実の利」とは、その後につづく文からして弥陀の本願名号のことを指しているのは明らかですから、『大経』自身が「仏教は弥陀の本願名号に尽きる」と宣言していると言えます。

さてしかし、釈迦がこの世に現われた本懐は弥陀の本願を説くことにあるというのは、どこか不自然な感じを与えないでしょうか。釈迦がこの世に現われた本懐は釈迦自身の教えを説くことにあるのではないのかと思うからです。釈迦の教えとして世に流布していますのは「諸行無常」、「諸法無我」、「涅槃寂静」(これを三法印といいます)や「一切皆苦」(これを加えて四法印となります)などさまざまありますが、それらを説くことこそ釈迦出世の本懐と言ってしかるべきではないのかと思えます。そういうことからしましても、釈迦出世の本懐が弥陀の本願を説くことにあるということにはどんな意味が隠されているのか、深く意を潜めなければなりません。


タグ:親鸞を読む
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