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智慧光のちからより [親鸞の和讃に親しむ(その76)]

(6)智慧光のちからより

智慧光のちからより 本師源空あらはれて 浄土真宗ひらきつつ 選択本願のべたまふ(第99首)

智慧光仏のちからより、本師源空あらわれて、浄土真宗ひらいては、選択本願ひろめたり。

「智慧光のちからより 本師源空あらはれて」とは、源空は勢至菩薩の化身であるということです。勢至菩薩は阿弥陀仏の智慧を象徴する菩薩である一方、源空は比叡山延暦寺において「智慧第一の法然房」と讃えられたことから、いつしか勢至菩薩は源空の本地であると信じられるようになりました。そしてすでにみましたように、『浄土和讃』の末尾には「勢至讃」8首がおかれ、そこに「以上大勢至菩薩 源空聖人御本地なり」と記されていました。

第3句「浄土真宗ひらきつつ」の「浄土真宗」は宗派の名前でなく「浄土の真実の教え」という意味であるのは言うまでもありません。親鸞は源空によってはじめて浄土の真実の教えが広められたと見ており、自分はそれを真っ当に継承していくだけと思っていたということです。親鸞は手紙のなかで、「浄土宗のなかに真あり、仮あり。真といふは選択本願なり。仮といふは定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり」(『親鸞聖人御消息』第1通)と述べています。

さてその「選択本願」ですが、このことばに源空浄土教の特徴がよくあらわれています。その名も『選択本願念仏集』のなかで源空はこういいます、「選択とはすなはちこれ取捨の義なり」と。この書物を要約したことばとして「三選の文」がありますが、そのなかで第一に聖道門を捨てて浄土門を選び、第二に雑行を捨てて正行を選び、第三に助業を捨てて正定業を選べと述べています。そもそも源空がそれを読んで目からうろこが落ちる思いをしたのが善導『観経疏』の次の一節でした。「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるをば、これを正定の業を名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに」。

この文のポイントは最後の「かの仏願に順ずるがゆゑに」にあります。「あれを捨て、これを選ぶ」と「選択」をするのはわれらではなく、かの阿弥陀仏であるということ、これです。


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