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「『正信偈』ふたたび」その46 ブログトップ

偈文2 [「『正信偈』ふたたび」その46]

(6)偈文2

如来の弘誓願を聞信したひとは「広大勝解のひと」であり「分陀利華」であると讃えられたあと、こう詠われます。依経段の最後です。

弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生

信楽受持甚以難 難中之難無過斯

弥陀仏の本願念仏は、邪見驕慢悪衆生、

信楽受持すること、はなはだもつて難し。難のなかの難、これに過ぎたるはなし。

弥陀仏の本願と念仏は、よこしまな考え方を持ち、おごりたかぶった悪人であるわれらには、

これを信じ保つことははなはだ難しいのです。これ以上に難しいことはありません。

この偈文のもとは『大経』最末尾の「もしこの経を聞きて信楽受持することは、難のなかの難、これに過ぎたる難はなけん」です。弥陀仏の本願念仏の教えは、まことにもって難信であるということですが、これは「正信偈」のこれまでをちょっとふり返ってみるだけで、まったくその通りと頷かざるをえないのではないでしょうか。しばしば聖道門は難しく、対する浄土門は易しいと言われますが、なんの、浄土門の教えほど難しいものはないと言わなければなりません。

たとえば「凡聖・逆謗斉しく回入すれば、衆水海に入りて一味なるがごとし」とありましたが(第3回)、これひとつだけでも如何に難信かと言わざるをえません。これはどんな聖者もどんな極悪人も弥陀仏の本願念仏の海に入りさえすれば、まったく同じように救われるということですが、『歎異抄』第3章ではさらに過激に「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と言われます。悪人でさえ救われるのではありません、悪人こそ救われると言われるのですが、こんな真っ向から常識に反する教えをどのように信楽受持できるのかとなるのが普通です。

弥陀仏の本願の「こえ」が聞こえるとき、それだけでもう「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」のなかに摂取されているということは、どんな極悪人もまったく同じように救われているということに他なりませんが、さてそれを心から信じることができるでしょうか。自分が「ほとけのいのち」に生かされていると信じることはできても、どんな極悪人もまた同じように「ほとけのいのち」に生かされていると言われると、「えっ」と思ってしまうことはないでしょうか。


タグ:親鸞を読む
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