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「傍に寄り添う」ということ(さらにつづく) [生きる意味(その23)]

(20)「傍に寄り添う」ということ(さらにつづく)
 「お前さんが振り込め詐欺で虎の子の預金をすってんてんにされたのは、お前さんが不注意だったからで、それはお前さんの責任だ」と言われたお婆さんのやるせなさ。言われることはその通りです。お婆さんは注意が足りなかったのです。でも、世の中にそんな悪い人はいないとお人好しにも思ってしまったお婆さんの自己責任ですべて終わりとしていいのでしょうか。そんな社会に住みたいでしょうか。
 「する」ことについては個々人の責任を問わなければなりません。それを互いの依存関係でうやむやにすることはできません。毎日うだうだしていて、その結果勉強ができないのは本人の責任です。それを学校のせいにしたり、親に責任を転嫁するのはいけません。あるいは、一生懸命働こうとしないで「オレのうだつが上がらないのは今の世の中のせいだ」と言うのは通りません。
 しかし同時に「いる」ことへの配慮を忘れてはいけないと思うのです。ある人を見る時、その人の「する」ことだけに関心を寄せるか、それとも、その人の「いる」ことに心を寄せようとするか。「いる」ことに心を寄せられてはじめて、その人の「傍に寄り添う」ことができます。自己責任論は、人の「する」ことしか眼に入らず、人の「いる」ことを感じない議論のような気がします。
 「生きる意味」は自分で調達できるものではなく、他者から贈られるメッセージだということを確認してきました。そして、それを「傍に寄り添う」“stand by”という観点から述べてきました。人は誰かに「傍に寄り添って」もらって、はじめて自分の「いる」ことを安心して受け入れることができるということです。

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