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偈文1 [正信偈と現代(その1)]

            第1回 はじめに

(1)偈文1

 帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい) 無量寿如来に帰命し
 南無不可思議光(なもふかしぎこう) 不可思議光に南無したてまつる

 (現代語訳) 限りないいのちの如来に帰命し、不思議なひかりの如来を敬したてまつります。

 みなさん、こんにちは。これからご一緒に正信偈を読んでまいりたいと思います。よろしくお願い致します。
 おそらくみなさんの方がぼくよりも正信偈とのつきあいは古く、朝夕のお勤めやお寺の行事でむかしから馴染んでおられることと思います。一方、ぼくはと言いますと、宗派としての浄土真宗とはまったく無縁ですので、お勤めとしての正信偈とも縁がありません。ぼくにとって親鸞という人は、ご開山聖人ではなく、天才的な仏教思想家であり、いやそれよりも、ぼくに「生死いづべき道」を示してくれた恩人(仏教的には善知識)です。ぼくは親鸞から生きる力を与えてもらい、日々の生活を送る上でさまざまな示を受けてきました。
 講座「『歎異抄』を聞く」でもお話しましたように、親鸞との出会いは高校時代でした。倫理社会の先生から古今東西の古典を読むという課題が与えられ、たまたま岩波文庫版『歎異抄』を手に取ることになったのです。高校生のことですから、どこまで理解できたかあやしいものですが、ただ「これはほんものだ」という感触だけはありました。よく分からないのに、ほんものと言うのも変ですが、とにかくこれは何度も読み返して、親鸞という人が言おうとしていることを汲み取らなければならないという気持ちにさせられたのです。大学で西洋哲学を学ぶようになってからも、いつもどこかに親鸞がいました。そしてそのうちには『教行信証』とも注釈書をたよりに格闘するようになりました。
 というわけで、門徒の方にとっての正信偈と、ぼくにとっての正信偈ではおよそその位置づけが異なると思います。そこで本講座としましては、日々のお勤めとして節を回して読む正信偈を普段の生活の場におろしてきて、そこに凝縮されている親鸞の他力思想を「現代を生きる指針」としたいと思うのです。

タグ:親鸞を読む
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