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救いは「むこうから」 [「『証巻』を読む」その22]

(2)救いは「むこうから」

先回の終わりに、救いの本質に「いま」があるという話をしました。救いは「いま」にしかないということです。そして救いの本質にはもうひとつ、「むこうから」ということがあります。救いは「むこうから」でしかないということ、これが弥陀と釈迦の関係を考える鍵となります。なぜ釈迦は自らの教えを説くのではなく、「ただ弥陀の本願海を説く」のかと言えば、救いは「むこうから」でしかないからです。どういうことか、順序だって考えていきましょう。

「むこうから」の反対は「こちらから」ですから、救いは「むこうから」でしかないというのは、それは「こちらから」得ることはできないということです。

釈迦は29歳のとき出家しました。そして救いを得ようと6年のあいだ森の中で修行に励みました。しかし得られない。彼は苦行を中断して尼連禅河で沐浴し、村娘から捧げられた乳粥を飲んで体力を回復して、ブッダガヤーの菩提樹の下で沈思瞑想しました。そのとき彼に大悟(ある気づき)が訪れたと仏伝は教えてくれます。これは何を意味するのか。よく言われるのは中道ということで、悟りは苦と楽の中道において得られるということですが、これを別様に考えてみたい。

釈迦は救いを「こちらから」得ようとしたが果たせず、それは「むこうから」やってきたということです。

「こちらから」とは「わがちからにて」(『歎異抄』5章)あるいは「わがはからひにて」(同6章)ということです。われらは何ごとも「わがちからにて」なさねばならないと思っています。もちろん他の力も借りなければなりませんが、そうするのも「わがはからひ」に他なりません。とにかく「わたし」がすべての第一起点であり、救いを得るのもこの「わたし」であると思い込んでいます。さてしかしこの「わたし」が第一起点という思い込み(囚われ)に問題の根があるのです。


タグ:親鸞を読む
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