SSブログ
「信巻を読む(2)」その69 ブログトップ

現当二益 [「信巻を読む(2)」その69]

(11)現当二益

この文では「今生に」と「命を捨ててのち」とが対比され、現在において観音・勢至に護られ、未来に浄土へ往生すると言われます。浄土真宗では今生の利益を「現益」、来生の利益を「当益」と呼んで区別していますが、それを用いますと、観音・勢至に護られるのが「現益」で、浄土に往生するのが「当益」ということです。しかしこの「現当二益」という概念自体には根本的な疑問があります。今生の利益は何の問題もありませんが、来生の利益とはいったい何かということです。そもそも来生ということばは、「わたしのいのち」が一旦終わっても、また別のかたちで生まれかわり、つづいていくということを前提としています(来生とは「来る生」です)。しかしすぐ前のところで見ましたように、それは「わたしのいのち」への囚われ以外の何ものでもありません。

『ダンマパダ』のことばでは「すでに自己が自分のものではない」のです。「わたしのいのち」とは仮にそのようなものがあるかのように生きているだけであり、いのちが終わるとともにそのように仮設(けせつ)された「わたしのいのち」も終わります。では「わたしのいのち」が終わるとどうなるのか―「ほとけのいのち」に帰っていくとしか言えません。「わたしのいのち」は「わたしのいのち」として仮説されたままで、すでに「ほとけのいのち」のなかで生かされているのですが、仮設された「わたしのいのち」がなくなりますと、そこには「ほとけのいのち」の海だけが広がることでしょう。しかし死んでからのことは、清沢満之とともに「私はマダ実験しないことであるから、此処に陳ることは出来ぬ」(「わが信念」)と言うべきかもしれません。

この問題を考えるたびに頭に浮ぶのがマールンクヤという青年のことです。彼は釈迦に来世のことについてしつこく尋ねます、来世はあるのか、霊魂は生きつづけるのかなどなどと。釈迦はそれに無言で応えますが(これを「無記」と言います)、いつまでも問うのをやめようとしないマールンクヤに「毒矢の譬え」を持ち出して戒めます、「マールンクヤよ、誰かに毒矢を射られたものがあるとしよう」と。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「信巻を読む(2)」その69 ブログトップ