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疑蓋まじはることなし [『教行信証』「信巻」を読む(その95)]

(12)疑蓋まじはることなし


このように一見したところかなり複雑な様相を呈していますが、親鸞がこの字訓釈の結論として取り出していますのは、至心も信楽も欲生もみな「疑蓋まじはることなし」ということです。すなわち至心は「真実の心」であり、信楽も「本願を真実の心で受けとめよろこぶ心」であり、また欲生も「願えば間違いなく仏になることができるとよろこぶ心」ですから、そこにはまったく疑いの入り込む余地がありません。だからこの三心はみな真実の信心としての「一心」であるというのです。すなわち「疑蓋まじはることなし」ということと「一心」とは同じ意味を有しているということです。この点について心を潜めておきたいと思います。


そもそもわれらが「わたしのいのち」を生きている限り、ものごとを疑うということから離れることはできません。「わたしのいのち」を生きることそのものが、取りも直さず、ものごとを疑うということです。


「わたしのいのち」を生きるとは、まずもって「わたし」がいて、その「わたし」があらゆることについて采配を振るということです。「わたし」がすべての上に立って、「これはよし、これはわろし」と決定を下すことですが、そのとき「わたし」と他のすべてのことがらは切り離されています。そしてそのように切り離されていることから、その隙間に疑いが忍び込んでくるのです。一旦は「これはよし、これはわろし」と決めても、時間が経つうちに「ほんとうにそうか」という疑念が生まれてくるのを防ぐことはできません。どれほど「確かそうだ」と思っても、そこには幾分かの疑いが残ることは避けられません。明日は100%晴れです、という天気予報が出されても、それは過去のデータからの確率にすぎませんから、過去にはなかったことが明日はじめて起る可能性を否定することはできません。


さて問題は本願です。「わたし」がどれほど「本願により往生でき成仏できるのは確かだ」と思おうとしても、そこにはかならず疑いのこころが起こってきます。なぜならそのとき「わたし」と本願が切り離されているからで、その隙間に疑いの風が吹き込んでくるからです。



タグ:親鸞を読む
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