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異義8カ条 [『歎異抄』を聞く(その102)]

(2)異義8か条

 前回までで前半の「故親鸞聖人の御物語」10か条が終わり、その後に「上人のおほせにあらざる異義ども」8か条に対する唯円の批判が続きます(本来こちらが『歎異抄』のメインであることは書名が示しています)。それをすべて読んでいくのが筋ですが、今回は親鸞自身のことばが出てくる第13章に絞って見ておきたいと思います。その前に異義8か条の内容をかいつまんでお話しておきましょう。

 第11章 ほれぼれと念仏している人に向かって「なんぢは誓願不思議を信じて念仏まうすか、また名号不思議を信ずるかと、いいおどろかす」こと。これは、もともとひとつである本願(信)と名号(行)を別ものとした上で、どちらをとるかと迫るのです。
 第12章 「経釈をよみ学せざるともがら」は往生できないと脅すこと。「われらがごとく、下根の凡夫、一文不通のものの、信ずればたすかる」というのが親鸞の教えであると一喝します。
 第13章 「弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは」往生できないと脅すこと。これは「本願をうたがふ、善悪の宿業をこころえ」ていないと批判されます。今回はこの段を取り上げ、親鸞の宿業の思想を味わおうと思います。
 第14章 「一念に八十億劫の重罪を滅す」と信じること。念仏は「転悪成善の益」(信巻)があるとされることを勘違いして、一念一念におかした罪が滅せられると考える誤りが批判されます。
 第15章 「煩悩具足の身をもて、すでにさとりをひらく」と説くこと。「今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらく」というのが浄土真宗であると批判されます。
 第16章 「はらをもたて、あしざまなることをもおか」すたび「かならず回心すべし」と説くこと。「本願をたのみまいらする」回心は「ただひとたび」と批判されます。
 第17章 「辺地に往生をとぐるひと、つゐには地獄におつべし」とおどすこと。「信心かけたる行者」も「うたがひのつみ」を償えば報土に往生できると批判されます。
 第18章 お寺にお布施する額の多少に応じて「大小仏になるべし」とおどすこと。「一紙半銭」も入れなくても「信心ふかくば」往生できると批判されます。

タグ:親鸞を読む
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