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親鸞の地声 [『末燈鈔』を読む(その3)]

(3)親鸞の地声

 ときには東国から念仏者たちが「十余ケ国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ」(『歎異抄』)こともありました。手紙のやり取りでは意を尽くすことができず、直にお目にかかって日ごろ疑問に思っていることを存分に聞きたいという気持ちからでしょう。『歎異抄』第2章を読みますと、親鸞がそうした人たちと対面している様子がありありと浮かび上がるようです。
 「念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」、「いづれの行もをよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」といった親鸞のことはには真情がこもり、とても親しく感じられます。しかし『歎異抄』はあくまで弟子である唯円の「耳の底に留まるところ」を記録したものであるのに対して、『末燈鈔』は親鸞本人が東国の念仏者たちに書き送ったことばですから、そこから正真正銘の親鸞の地声を聞くことができます。
 さて「末燈鈔」は後につけられたタイトルでして、編者である従覚はその書物の題としてこう書いています。
 「本願寺親鸞大師御己証(ごこしょう)並びに辺州所々の御消息等類聚鈔(るいじゅしょう)」(本願寺の親鸞大師がご自身の心の内を述べられた文と、各地に書き送られた手紙などを一冊に編纂したもの)
 なお『末燈鈔』の末尾には蓮如の筆で次の奥書があります。
 「凡そ斯の御消息は念仏成仏の咽喉、愚痴愚迷の眼目なり、秘すべく秘すべきのみ」(およそここに収められているお手紙は、念仏成仏しようとする者にとっての咽喉であり、無智頑迷な者の眼目となるものですから、むやみに公開すべきではありません)。
 『歎異抄』の奥書を髣髴させる文章で、蓮如がこれを如何に大事な書物と考えていたかが伝わってきます。どうして秘さなければならないのかには引っかかるものがありますが。
 では最初の手紙を読んでいきましょう。


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