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うたがふこころなき [『一念多念文意』を読む(その18)]

(5)うたがふこころなき

 名状しがたい経験は人によりさまざまでしょう。因幡の源左の場合、ある朝、草刈りからの帰り道、「源左たすくる(源左よ、助けるぞ)」の声が聞こえた。彼はただちに「ようこそ、ようこそ」と応えたのですが、これが源左にとっての「南無阿弥陀仏」です。源左も若い頃から浄土真宗の文化の中で育っていますので、本願も法蔵も馴染みがあり、「南無阿弥陀仏」もごく自然に口をついて出ていたでしょう。でも、「源左たすくる」の声が聞こえて、「むかしの本願がいまはじまった」に違いありません。
 さて、見てきましたように親鸞は「きくといふは、本願をききて、うたがふこころなき」とした上で、「またきくといふは、信心をあらわす」と述べます。そして「信心は、如来の御ちかひをききて、うたがふこころのなき」と結論するのです。
 このように「うたがふこころのなき」が繰り返されていますが、これは、本願を聞き、それを吟味した上で、疑わないということではありません。本願を聞くことは、すなわち疑うこころがないということだと言っているのです。本願を聞いたら、もうそれを疑うも疑わないもないということです。ちょうど、うっとりするようなメロディが聞こえてきたとき、疑うも疑わないもなく、ただひたすらうっとりするだけであるように。
 疑うとはどういうことかを考えてみましょう。
 ぼくが何かを疑うとき、それを手に取って見ています。別に手に取らなくてもいいですが、とにかくそれはぼくの手前にあります。それを見て「これは何だろう」と疑う。いちばん知りたいのは、それが自分に役立つものかどうかということでしょう。動物たちだったら、それは食べられるものかどうかということ。アメーバだって疑っているはずです。彼らは触手というのでしょうか、足といえばいいのか、とにかくすぐ傍にあるものを触ってみて、それを摂取していいものかどうかを疑っているに違いありません。
 ここで「見る」と「聞く」の違いがでてきます。何かを「見る」とき、それはぼくの手前にあります。ところが何かに「聞きほれる」とき、それとぼくは一体です。

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