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難のなかの難、これに過ぎたるはなし [「『正信偈』ふたたび」その49]

(9)難のなかの難、これに過ぎたるはなし

これまで、如来の弘誓願に遇うとき、「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」のなかに摂取されると言ってきましたが、またそこに戻ることになります。

如来の弘誓願に遇うまでは、「わたしのいのち」はただ「わたしのいのち」でしかなく、それを「わがはからい」で生きなければと思ってきました。これが「自力のこころ」です。ところがあるとき如来がわれらを招喚する「こえ」が聞こえてきて、そのときはじめて「ほとけのいのち」に遇うことになります。そしてこれが「ほとけのいのち」に摂取されるということ、「ほとけのいのち」に生かされるということです。このとき「他力のこころ」を賜ったと言えます。「ああ、もう何ごとも自分で始末をつけなければならないという思いに縛られなくていいのだ、“ほとけのいのち”にお任せすればいいのだ」と思えるようになるのです。

このように見てきますと、「他力のこころ」は如来がわれらを招喚してくださる「こえ」が聞こえることにより与えられるのですから、それは「ほとけのいのち」から賜るということになります。

さて問題は、このように「ほとけのいのち」から「他力のこころ」を賜るというように言いますと、どうしても「ほとけのいのち」なるものがどこかにあるようにイメージしてしまい、そんなものがどこにと思い惑うことにあります。信楽受持することが「難のなかの難」である最深の根拠がここにあると言えます。また「体と用(ゆう)」ということばを持ちだしますと、「体」とは、いま言いました「どこかにあるもの(実体)」で、「用」は「あるはたらき」あるいは「ちから」です。で、いま問題となっているのは、「ほとけのいのち」とは、「体」ではなくて「用」であるということです。「ある不思議なはたらき」が身の上に感じられるとき、それを「ほとけのいのち」と呼んでいるのだということで、その「はたらき」といいますのが、われらに「あんじん」を与える「ちから」のことです。


タグ:親鸞を読む
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