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7月10日(日) [矛盾について(その341)]

 信仰の対立は「感じる」ことを巡る対立でした。ある人は十字架上のイエスに赦しを感じ、ある人は弥陀の本願に救いを感じる。別にそれぞれがそれぞれに感じればいいじゃないかとなりそうですが、ことはそう単純ではないことは前にみた通りです。知ることは記述され、意思したことは表明されるように、感じたことは表出されます。信仰はおのずから外に形あるものとして表出され、それが周りへの勧誘という意味合いを持たざるをえないのです。
 さて「感じる」ことを巡る対立が起こったとき、どう対処すればいいのでしょう。学説の対立や政治的意見の対立は話し合いで打開を図るしかありませんでしたが、いまの場合は話し合いで何とかなるとは思えません。どう感じるかは人によってそれほど異なるものではありません(その点については前に検討しました)が、異なってしまうともう何ともなりません。しかし「感じる」ことだけの問題でしたら、それほど深刻ではありません。「蓼食う虫も好き好き」で、それぞれがそれぞれに感じればいいことです。深刻な事態になるのは、「感じる」ことが「意思する」ことと結びついてくるときです。
 前に上げた「イルカ漁は残酷かどうか」を巡る対立の場合、それを残酷だと感じる人たちは、その漁をいますぐやめるべきだと主張するでしょう。「イルカ漁は残酷だ」という「感情の表出」が「イルカ漁はやめるべきだ」という「意思の表明」と結びついているのです。このように両者は堅く結びついていますが、しかしだからと言って、決して同じというわけではありません。「イルカ漁は残酷だ」と感じても「イルカ漁は認めるべきだ」と主張することもありうるからです。牛を屠殺するのは残酷だと思いますが、だからといって牛肉を食べるべきではないとはなりません。「感じる」ことは「意思する」ことの大きな根拠になりますが、「感じる」ことから自動的に「意思する」ことが導かれるわけではないのです。

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