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すでにこの道あり [はじめての『高僧和讃』(その53)]

(11)すでにこの道あり

 次の和讃です。

 「一切道俗もろともに 帰すべきところぞさらになき 安楽勧帰のこころざし 鸞師ひとりさだめたり」(第25首)。
 「僧俗とわずみなともに、帰すべきところほかになし。西にむかって帰らんと、曇鸞ひとりさだめたり」。

 これを読みますとあの童謡が聞こえてきます。「夕焼け小焼けで 日が暮れて 山のお寺の鐘がなる おててつないで みなかえろ からすといっしょに かえりましょ」。「帰っておいで」の声がするから、みんないっしょに、からすもいっしょに、西に向かって帰りましょう、と。
 そして「帰すべきところぞさらになし」ということばは、善導の二河白道の譬えに出てくる「すでにこの道あり、かならず度すべし」ということばを彷彿させます。進退窮まった旅人は思うのでした、「われいまかへるともまた死せん、住すともまた死せん、ゆくともまた死せん」と。そしてこうつぶやくのです、「一種として死をまぬがれざれば、われやすくこの道をたづねてさきにむかひてしかもゆかん」と。さらに「すでにこの道あり、かならず度すべし」ということばが旅人の口をついて出る。
 「すでにこの道あり」と言うとき、旅人はもう白道に一歩踏み出しています。白道を行こうかどうか考えているのではなく、もう白道に入り込んでいます。白道の入口には門があり、旅人はすでにその門に入っているのです。涅槃そのものは白道の先、河の向こう岸にありますが、涅槃の門は白道の入口、河のこちら岸にあるのです。旅人がその門に入ったそのときが「即得往生、住不退転」です。

タグ:親鸞を読む
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