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宿業ということば [『ふりむけば他力』(その50)]

       第5章 わがこころのよくてころさぬにはあらず

(1)宿業ということば

 『教行信証』には「宿縁」ということばが出てきましたが、『歎異抄』にはよく似たことばとして「宿業」が登場してきます。その第13章に親鸞の仰せとして「卯毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべし」ということばが紹介されています。宿縁とは本願他力に遇う縁ということでしたが、宿業はさまざまな罪をつくる縁という意味でつかわれ、かなり異なるイメージを与えますが、その大元にあるのは同じ縁起です。本願他力に遇うのも縁なら、いろいろ罪をつくることになるのも縁によるということです。
 しかし「縁」ということばは善きことと結びついてつかわれるのが普通で、「いいご縁にめぐまれました」というように言うのに対して、「業」はたいがい悪きことと結びつき、「業の深い女」などと言いますから、宿縁と宿業が同じものであるというのはすんなり受け入れられないかもしれません。そしてそのことがさまざまな物議をかもすもとになります。『歎異抄』第13章はとかく議論の多いところで、人によっては(よく名の知られた方も)この章は親鸞の真意を大きく歪めていると著者の唯円を批判しています。何が問題となるのか、ともあれ第13章が言っていることを見てみましょう。
 唯円はまず「本願ぼこり」を取り上げます。これは前章の最後にふれました「悪人正機」とからんで、法然・親鸞在世の頃から困った問題として浮上していたことです。本願他力においては「善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや」ですから、もう悪をおそれることはないとして、わざと好んで悪をなす人たちが現れてきたのです。その人たちの言動を「本願ぼこり」(あるいは「造悪無碍」)とよぶのですが、そのような動きが出てきたことは当時の状況から見てある意味きわめて自然なことだと思われます。
 第13章に「海・河に網をひき、釣をして世をわたるものも、野山にししをかり、鳥をとりていのちをつぐともがらも、商ひをし、田畠をつくりて過ぐるひとも」ということばが出てきますが、このような人たち(世の大半を占める庶民たち)は世の高貴な人たちから「悪人ども」と蔑まれていました。そして仏教は一部の高貴な善人たちのものであったのです。そんななかに法然・親鸞の「善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや」という革新的な教えが登場してきたのですから、これが悪人と蔑まれていたたちにとってどれほど衝撃的で、悦ばしいものであったか分かろうというものです。

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