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「自分」が生まれたとき [生きる意味(その139)]

(13)「自分」が生まれたとき

 「自分」が生まれた瞬間がどのようなものであったか、残念ながら記憶がありません。母親から生まれた瞬間のことを言っているのではありません、ぼくが「自分」になった瞬間です。
 赤ん坊のぼくが積み木遊びをしている場面を想像してみましょう。傍にいたもう一人の赤ん坊がその積み木を横から取ろうとして、ぼくが激しく泣いた日。その時ぼくは「自分」になったのではないでしょうか。
 そしてぼくが「自分」になった瞬間は、もう一人の赤ん坊が「他人」になった瞬間です。「自分」が生まれた瞬間に「他人」も生まれた。「自分」と「他人」は一卵性双生児です。ぼくがいるということは、取りも直さずきみがいるということです。ひとつの卵が割れて、ぼくときみに分かれた。
 これまで何度も「われ思う、故にわれあり」を引き合いに出してきましたが、「われあり」なら同時に「なんじあり」で、「われあり」だけということはありません。「われ」も「なんじ」もなかったのに、ある時「われ」が生まれ「なんじ」が生まれた。
 例のアンドロギュノスがゼウスによってふたつに切り裂かれた時、互いの分身を求めてさすらいの旅がはじまったように、この時から「われ」の孤独な旅がはじまったのです。「われ」は「なんじ」を求め、同時に「われ」は「なんじ」とことあるごとに角突き合わせる。


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