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空と本願 [「『正信偈』ふたたび」その56]

(6)空と本願

先ほど言いましたように、「空の思想」と「本願の思想」は一見したところまったく縁がないように見えます。かたや深遠な哲学といった顔をしているのに対して、かたや物語のような風貌で、どこにも接点がないように思われますが、しかし両者は同じことをそれぞれ別の語り口で語っていることが分かります。「本願の思想」からいきますと、少し前のところで述べましたように(3)、本願とはこことは別のどこかにある何ものかではなく、いまわれらの身の上に生き生きとはたらいている本願力のことで、そのはたらきによってわれらは生かされているというのが「本願の思想」です。われらは「わたしの力」で生きていると思っていますが、そしてそれはそうに違いありませんが、ただその「わたしの力」をもうひとつ奥のところで支えているのが「ほとけの力」すなわち本願力であるということです。

その意味でわれらは本願力に生かされているのです。自力はそっくりそのままで他力のなかに包み込まれています。

一方、「空の思想」は、何ものも他の無数のものやこととのつながりにおいてあり、そのつながりから離れてそれだけとして存在することはないと言いますから、「わたし」というものもまた他とのつながりから離れてそれ自体として存在することはないということになります。ところがわれらは「わたし」あってのものだねと思い、「わたし」が右手を上げようと思うから右手が上がり、左手を上げようと思ったら左手が上がるというように、「わたし」があらゆることの起点となっていると思います。デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり」と言ったのはそのことです。確かに「わたし」が何かをしようと思うから、それをするのであり、その意味では「わたし」が起点となっていますが、しかし「わたし」が何かをしようと思うこと自体がさまざまなこととのつながりのなかでそのような次第になったのですから、その意味では「わたし」は第一起点ではありません。

「わたし」は「わたし」として生きるままで他とのつながり(縁)に支えられて生きているのです。このように「空」と「本願」は語り口は違っても、ぴったり同じことを言っていることが分かります。


タグ:親鸞を読む
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