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現生の益 [『教行信証』「信巻」を読む(その127)]

(7)現生の益

「ほとけのいのち」(仏)を信じ、「ほとけの本願」(法)を信じ、「それを伝えてくれる善知識」(僧)を信じれば、どんな功徳があるかがこれでもかと説かれています。そこには自利(往相)もあれば利他(還相)もありますが、注目したいのは、これらはみな信を得た「いまここ」で生きる上での利益であるということです。そう言えば親鸞ももう少し先のところで「現生十益」を説きます、「金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものをか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、…十には正定聚に入る益なり」と。このように信心の益として「現生に十種の益」があると述べ、来生の益のことには触れていません。これの意味することを考えておきましょう。

すぐ上のところで「涅槃に入る」ことと「涅槃の門に入る」ことを対比しました。涅槃そのものに入るのは、煩悩が消えたときですが、涅槃の門に入るのは、煩悩の本が切られたときであるということです。煩悩が消えるときといいますのは、「わたしのいのち」が終わるときですから、これは来生のことと言えます。ですから来生には涅槃に入ることができるということで、これを来生の益として語ることはできるでしょう。しかし親鸞は来生のことを語ることにはかなり抑制的な姿勢をとっていると感じます。必要な範囲では語るものの、積極的に来生のことを語ろうとはしないという印象を受けます。なぜか。彼の関心は「いまここ」に向いていて、来生のことを語る必要を感じていないからに違いありません。

自分にとって大事なのは「いまここ」であり、来生ではないとはっきり言ってくれた人がいます。清沢満之という人で、たとえば彼はこう言います、「私の信ずる如来は、来世を待たず、現世に於て既に大なる幸福を私に与えたまう。私は他の事によりて多少の幸福を得られないことはない。ケレドモ(ママ)、如何なる幸福も此信念(信心のことです)の幸福に勝るものはない。故に信念の幸福は、私の現世に於ける最大幸福である。此は、私が毎日毎夜に実験しつつある所の幸福である。来世の幸福のことは、私はマダ(ママ)実験しないことであるから、此処に陳ることは出来ぬ」(『わが信念』)と。


タグ:親鸞を読む
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