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如来の異の方便、欣慕浄土の善根 [『観無量寿経』精読(その79)]

(12)如来の異の方便、欣慕浄土の善根

 善導は「至誠心釈」につづく「深心釈」でこう言っていました、「深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して出離の縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受(しょうじゅ)して、疑なく慮(おもんぱか)りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず」と。何度も同じ文を引くようで恐縮ですが、この文はそれほど射程が長いということであり、ここに浄土の教えのエッセンスがあるということに他なりません。
 「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」であると骨の髄に沁みて気づかされ、この機の深信があってはじめて、「かの願力に乗じて、さだめて往生を得」という法の深信をえることができるのです。
 三福という明らかに自力の教えがどうして説かれるのかと言えば、それはわれらを本願他力の教え(彰の義)へと導き入れるための方便の教え(顕の義)であることを見てきました。三福の教説は「如来の異の方便、欣慕浄土の善根」として説かれているということです。自力の世界にどっぷり浸かっていて、己を善人であると自認しているわれらに、「かの国に生ぜんと欲はんものは、まさに三福を修すべし」という条件が突きつけられます。そのとき己の力を自負するものほど、より厳しい課題に挑戦しようとすることでしょう。そしてその経験のなかである気づきに至ります。
 親鸞は「十余箇国のさかひをこえて」訪ねてきた関東の念仏者に驚くべきことばを投げつけていました、「念仏は、まことに浄土に生るるためにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にしかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」(『歎異抄』第2章)と。
 「いづれの行もおよびがたき身」という気づきを通して、はじめて「かの願力に乗じて、さだめて往生を得」という気づきに至るのです。

                (第6回 完)

タグ:親鸞を読む
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