SSブログ
はじめての『高僧和讃』(その32) ブログトップ

海にいりて一味 [はじめての『高僧和讃』(その32)]

(15)海にいりて一味

 本願力に遇うことで、ぼくらの小さい「わたしのいのち」が無限の「ほとけのいのち」に包まれていることに気づかされるのですが、そのことを第14首では「正覚のはなより化生して」と詠っているのです。それは決していのち終わってからのことではなく、本願力に遇ったそのときです。そしてそのことにより「衆生の願楽(がんぎょう)ことごとく すみやかにとく満足す」という結果が生じるのです。願楽の「楽」は、この場合「たのしむ」ではなく、願と同じくぼくらがこころの底から「求め願う」ことですが、それはどんな境遇におかれても、朗らかに生き切ることに他なりません。
 「死んでも死にきれない」のは生き切っていないからです。生き切っていれば、いつでもどこでも死に切れます。
 第15首はちょっと読むだけではよく分かりませんが、『浄土論』に「天・人不動の衆、清浄の智海より生ず」とあるのがもとになっています。そして曇鸞がそれについて「海といふこころは、仏の一切種智、深広にして涯(はて)もなし。二乗雑善の中下の屍骸をやどさず。これを海のごとしとたとふ。…不動といふこころは、かの天人大乗根を成就して傾動(きょうどう)すべからざるなり」と注釈しているのです。そこからしまして、本願の海に入ることができたら、それまでどれほど汚れや濁りをまとっていてもみな一様に清浄となり、「衆水、海にいりて一味なるがごとし」(正信偈)と言っていることが理解できます。
 これまたいのち終わってからのことではなく、本願力に遇えたそのときであることは言うまでもありません。
 念のためですが、本願の海に入ることで汚れや濁りがみな清浄になるといいましても、文字通り濁水が浄水に変わるわけではありません。濁水が浄水になるどころか、むしろ濁水が紛れもなく濁水であることをはっきり思い知らされるのです。そして「虚空のごとく差別なし」とは、みな等しく浄水になるということではなく、紛れもなく濁水であることに気づくとき、濁水であることにおいて何の差別もないということです。みな一様に濁水であるということです。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
はじめての『高僧和讃』(その32) ブログトップ