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『歎異抄』を読む(その11) ブログトップ

5月26日(土) [『歎異抄』を読む(その11)]

 「序文」が二つもあるという不思議と並んで、もう一つの不思議は、「結文」の中に、「大切の証文ども、少々ぬきいでまいらせさふらふて、目やすにして、この書にそへまいらせてさふらふなり」とあるのに、それに当たる文章が見当たらないという点です。もともとは最後に添えられていた「大切の証文」が、何らかの事情で脱落してしまったのでしょうか。いや、そうじゃなくて、前半の「御物語」こそ、問題の「大切の証文」じゃないかという考え方があります。
 ぼくにはこの説が正しいように思えます。
 その最大の理由は、そう考えることで「序文」が二つもある謎が解けるからです。こういう推理です。唯円は最初に第十条にくっついている「序文」を書き、それに続けて「異義批判」を書いた。そしてそれに「大切の証文」を添えようとしたが、これは師親鸞の「御物語」だから後ろに置くのは具合が悪い、やはり前に置くべきだと考え直した。となると、全体の序文がないとおさまりがつかなくなって、改めて「序文」を書いたと。こうして二つの「序文」がある変則的な本が出来上がったという訳です。
 著者、成立年代、構成と見てきましたが、いよいよ「序文」を読んでみましょう。
 『歎異抄』は全体が和文で書かれていますが、最初の「序文」だけは漢文です。その洗練された漢文を見ますと、唯円という人、かなりの教養の高い人だと思われます。読み下しにした形で上げておきます。
 ひそかに愚案をめぐらしてほぼ古今を勘ふるに、先師の口伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑あることを思ふ。幸ひに有縁の知識に依らずば、いかでか易行の一門に入ることを得んや。全く自見の覚悟を以て他力の宗旨を乱ることなかれ。よつて、故親鸞聖人の御物語のおもむき、耳の底に留まる所いささかこれをしるす。ひとへに同心行者の不審を散ぜんがためなりと云々。

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