SSブログ
正信偈と現代(その26) ブログトップ

身もこころも柔らかく [正信偈と現代(その26)]

(6)身もこころも柔らかく

 ある受験校に赴任したときのこと、3年の学年主任が受験生たちを前にこう言って発破をかけていたのをいまも印象深く覚えています、「諸君、奥歯をかみしめるのだ」と。そうか、生徒たちは奥歯をかみしめて折れそうになるこころと戦っているのだ、と思ったことでした。考えてみますと、この受験生たちと同じように、娑婆世界で生きるぼくらはみんな奥歯をかみしめながら、さまざまな苦しみを耐え忍んでいます(娑婆のもとのサンスクリットは「サーハー」、苦しみを忍ぶところという意味です)。しかし四六時中、奥歯をかみしめていますと、身もこころもこわばってくるでしょう。肩も腰もパンパンに凝ってくることでしょう。
 この「ひかり」は、それに遇った途端、ごわごわにこわばった身とこころをすーっと柔らかくしてくれるのです。
 ぼくらは善と悪についても、それを前にして身とこころを固くします。善と思うことについては、何としてもこれをしなければと奥歯をかみしめ、悪と思うことについては、何としてもこれをなくさなければならないと手を握りしめます。このように身もこころもごわごわに固くなってきますと、われもひとも善をしようとしないものは許せなくなり、悪をしようとするものは鬼のように見えてきます。ところがこの「ひかり」に遇いますと、あたりの景色が変わってくるのです。
 親鸞はこんなふうに言っていました、「善悪のふたつ、総じてもて存知せざるなり」(『歎異抄』後序)と。そしてその理由をこう言います、「如来の御こころによしとおぼしめすほどに、しりとをしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどに、しりとほしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめ」と。そしてこう言い放つのです、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなき」と。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
正信偈と現代(その26) ブログトップ