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時間を超えて [「信巻を読む(2)」その37]

(2)時間を超えて

自力が「これから」であるのに対して、他力は「もうすでに」です。他力とは「如来の本願力」のことですが、それは、気がついたら「もうすでに」本願力によって生かされていたということです。「これから」本願力によって何かを得ようというのは他力ではありません、自力です(親鸞が横出ということばで「他力のようだが実は自力」というありかたを表現していますのはこれのことです)。そして他力の「もうすでに」とは「時間のなかの過去」ということではありません、「どんな前よりももっと前から」ということで、これはもう時間そのものを超えています。経にはしばしば「曠劫よりこのかた」という表現がでてきますが、これは「時間を超えて」ということに他なりません。

つい先ほどこう言いました、われらは否でも応でも時間のなかで生きているが、しかしその時間の秩序を超えるものがあると。否応なく時間のなかで生きているというのが自力ということで、一方、時間の秩序を超えてやってくるものがあるというのが他力ということです。われらは自力でさまざまなものを得ようとしていますが、これは否応なく時間の秩序のなかのことであり、時間を超えることはできません。ところがその一方で、これまた否応なく時間を超えたものに遇うことがあります。時間は「こちらから」超えることはできませんが、「むこうから」時間を超えてやってくるものがあるのです。これが本願他力に遇うということです。

われらは自力で生きる限り時間のなかにいますが、あるとき時間を超えた他力がやってくるのです。これは、時間のなかにいながら、そのただなかで時間を超えたものに遇うという不可思議な経験です。時間を超えたものに遇ったからと言って、時間を超えてしまうわけではありません。これまでと何も変わらず時間のなかで生きるのですが、しかし同時に時間を超えた他力に生かされるのです。これが「わたしのいのち」は「わたしのいのち」として自力で生きながら、同時に「ほとけのいのち」という他力に生かされるということです。


タグ:親鸞を読む
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