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二種深信 [『教行信証』「信巻」を読む(その52)]

第6回 自身は現にこれ罪悪生死の凡夫



 (1) 二種深信



  『観経疏』「散善義」の三心釈のつづきで、次は「深心」について。長いので五段に分け、まず第一段。



 〈二者深心〉。〈深心〉といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受(しょうじゅ)して、疑なく慮(おもんぱか)りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。



 ここが有名な二種深信の段です。普通に信心といいますと、本願を信じるということですが、しかし信心にはもうひとつ別の相があると善導は言います。それが「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫であると信じる」ことであると。信心には「かの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ずる」ことと(これを法の深信と言います)、もう一つ「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫であると信ずる」こと(これを機の深信と言います)、この二つが含まれているということです。そしてここで大事なことは、この二つは切り離すことができず、ちょうどコインの表と裏のように、一方があれば必ず他方を伴っているという関係になっているということです。



善導は「一つには」、「二つには」と言い、まず「自身は罪悪生死の凡夫であると信じ」、しかる後に「かの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ずる」という順序になっています。しかしこれは機の深信が因となり、法の深信が果として生まれるという関係ではなく、両者は切り離しがたく一つにつながりあっているということです。機の深信のあるところ、かならず法の深信があり、また、法の深信のあるところ、かならず機の深信があるということ、これです。このことをはっきりと言ってくれたこと一つで善導は浄土教の歴史のなかに燦然と輝いています。さてしかしこれはどういうことを意味するのか、またどうしてそんなふうに言えるのかを考えなければなりません。



タグ:親鸞を読む
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