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かの仏願に順ずるがゆゑに [『観無量寿経』精読(その82)]

(3)かの仏願に順ずるがゆゑに

 「かの仏願」とは第十八願であることは言うまでもありません。善導は第十八願を自分流に加減して次のように翻訳してくれます、「もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、わが願力に乗じて、もし生れずば正覚を取らじ」(『観念法門』)と。このように、「わが名字を称すること、下十声に至るまで」のものをわが願力により往生させたいというのが如来自身の願いであるのだから、「一心に弥陀の名号を専念」することこそが往生の正因であるのは当たり前ではないかということです。
 それが仏願なのだと言われてみますと、定善や散善を修めることではなく、「わが名字を称する」ことが往生にとっての正定の業(それにより往生が正しく定まる業)であるという善導の革新的な説が信憑性を持ってきます。善導自身これを「古今楷定(ここんかいじょう、古今の諸師の誤りを改め、正しい解釈を定める)」と自負したことも首肯できるように思えます。さてしかし、あらためて下品上生のくだりを読んでみますと、またもや疑念が鎌首をもたげてこないでしょうか。「あるいは衆生ありて、もろもろの悪業を作らん。…かくのごときの愚人、多く衆悪を造りて慚愧あること」がないにもかかわらず、命終らんとする時に、「智者また教へて、合掌叉手して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、五十億劫の生死の罪を除く」とありますが、これでは上品や中品のものたちと比べてあまりに公平を欠くような気がします。
 上品や中品のものたちは散善を修め、三福を行じることによって往生できるのに、下品の悪人は、臨終にあたり、ただ南無阿弥陀仏と称するだけで往生できるというのはあまりに虫がよすぎるのではないかと感じざるをえないのです。さてしかし、この感覚はどこからやってくるのかを考えてみなければなりません。不公平だとか虫がよすぎるという感覚は、散善三福と称名念仏とを同一平面上で比べるところから生まれてきます。何らかの徳を積むことにより往生を得るという同じ平面で、散善三福と称名念仏の徳の重みを天秤にかけているのです。

タグ:親鸞を読む
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