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ボーディ・サットヴァ [「『証巻』を読む」その63]

(12)ボーディ・サットヴァ

還相の菩薩というときの菩薩とは梵語「ボーディ・サットヴァ」の音訳で、「ボーディ」は菩提すなわち仏の覚り、「サットヴァ」とは衆生ですから、元来、仏の覚りに定まった衆生という意味です。仏と衆生をつなぐ存在というべきで、それをこれまで「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」を生きるものという言い方をしてきました。いまだ「わたしのいのち」ですが、同時に「ほとけのいのち」を生きているということですが、その意味を明らかにするべく、ここであらためて「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」の関係について考えておきましょう。

「ほとけのいのち」は「無量のいのち」ですから、それを「有量のいのち」が捉えることはできません。もし捉えることができるとしますと、そのとき「無量のいのち」はもはや「無量のいのち」ではなくなっています。「無量のいのち」の外に、それを捉えている「有量のいのち」が存在するということですから、それはもう「無量のいのち」とは言えません。このように「無量のいのち」はこちらから捉えることはできませんが、だからと言って存在しないということにはなりません。「有量のいのち」とは何かを理解している以上、「無量のいのち」についても理解しているはずで、それを捉えることができないとしても、存在することは確かです。ではそれはどんな存在でしょう。

それは、言ってみれば、虚焦点のようなものではないでしょうか。凹レンズを通してものを見るとき、ものが拡大してはっきり見えますが、それはレンズの手前に発光源があるかのように光線が発散されるからで、その発光源を虚焦点と言います。そのように「無量のいのち」という虚焦点から発する光に照らされて「有量のいのち」のありようがはっきり見えるようになります。「有量のいのち」を「有量のいのち」として見るためには、「無量のいのち」という虚焦点がなければならないということであり、「有量のいのち」は自他分別の心をもつものであることをはっきり了解するためには、自他一如である「無量のいのち」という発光源が必要であるということです。

菩薩は己を自他分別の「有量のいのち」と気づくことで、同時に自他一如の「無量のいのち」に気づいているのです。これが「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」を生きるということです。

(第6回 完)


タグ:親鸞を読む
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