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自利と利他 [「『正信偈』ふたたび」その69]

(9)自利と利他

この問題を考えるとき真っ先に思うのが法然や親鸞の生涯です。法然は43歳のときに山を下りて専修念仏の生活に入り、親鸞は29歳のとき法然と出会い本願に帰入しましたが、二人のそれ以後の人生をどう見ればいいのでしょう。法然は吉水に草庵を開いて75歳で承元の法難で四国に流罪となるまで多くの人たちを教化し、その一人が親鸞であったわけですし、親鸞もまた越後流罪のあと、常陸の地で多くの弟子たちを教え導いたわけですから、彼らの後半生は自利の生活であると同時に利他のはたらきをしたという他ありません。としますと、今生ではひたすら自利の生活で、来生にはじめて利他のはたらきをするということにはなりません。

あらためて「一心」ということを考えてみましょう。本願力の回向によってわれらに信が開けるとき、本願とわれらの信心は「一つ」になっています。これが「一心」ということでした。ですから信が開けたということは、われらは「本願のひと」となったということに他なりません。それはすなわち本願を「わが願い」として生きるようになるということであり、法然や親鸞は本願を「わが願い」として生きた人と言わなければなりません。そして本願を「わが願い」として生きるということは、本願を人々に伝えることであり、すなわち教化のはたらきをするということです。この利他教化のはたらきは「そうしなければならない」という義務の意識からではなく、もう「そうしないではいられない」という思いから生まれ出てきます。

第十八願の成就文に「その名号を聞きて、信心歓喜せん」とありますが、名号の「こえ」が聞こえてくること(これが信です、聞即信です)は歓喜をもたらします。「ああ、もう“ほとけのいのち”のなかに摂取され生かされている」という思いは慶び以外の何ものでもありません。そして一般に喜びというものは、おのずからそれを他人に伝えたいという欲求を呼び起こします。真冬の御岳の神々しい姿が目に入ったときの喜びは、横にいるだれかれに「ほら、御岳が」と教えてあげざるを得なくさせます。そのように本願名号に遇えた慶びもそれを他人に伝えざるを得なくさせるのです。これが利他教化ということですから、それは自利と別ではありません。

(第7回 完)


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