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きはもなし [『浄土和讃』を読む(その15)]

(5)きはもなし

 「智恵の光明はかりなし」という言い回しも、はかりない光明がどこかに存在すると考えますと、たちまちゼノンのパラドクスにとらえられてしまいます。どこかに無限の光明の世界があり、そこから光がわれらのもとに届けられるとしますと、光の矢はわれらに届くまでに無限の点を通過しなければならず、それは不可能というものです。そうではなく、「智恵の光明はかりなし」とは、われらに届いている光のもとをたずねようとしても、どこまでいっても切りが〈ない〉ということです。
 無量の光明がどこかにあるということからスタートしますと、それはわれら「有量の諸相」に届くことができず、われらにとってどこまでも無縁の存在にとどまります。そうではなく、不思議な光明がどういうわけか「いま、ここ」に届いているという事実がすべてです。しかし、その光のもとをたずねようとしても、どこまでたずねても切りが〈ない〉、これが無量ということです。無量の光明があらかじめどこかにあって、それが有量の諸相に届くのではありません。まずもって弥陀の光明が有量の諸相に届いているという事実があるということ、しかし、こちらからたずねようとしてもいつまでも到達できない。
 同じことは次の和讃についても言えます。

 「解脱の光輪きはもなし 光触(こうそく)かぶるものはみな 有無をはなるとのべたまふ 平等覚に帰命せよ」(第5首)。
 「さとりのひかりはてもなし。ひかりにふれるものはみな、有無のとらわれなくなって、へだてなき仏帰命せん」

 これは「きはもない」つまり無辺の光をうたっています。もとの曇鸞の偈は「解脱の光輪限斉(げんさい)なし ゆゑに仏をまた無辺光と号(なづ)けたてまつる 光触を蒙るもの有無を離る このゆゑに平等覚を稽首したてまつる」です。先の和讃では「はかりなし」でしたが、この和讃では「きはもなし」です。「きは」つまり限りがなく、ここまでということがないということです。無量の光がどこかにあるのではなかったように、無辺の光もまたどこかにあるのではありません。ただ、届いた光の「きは」を求めようとしても、どこまでいっても切りがないということです。


タグ:親鸞を読む
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