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信は道の元とす [『教行信証』「信巻」を読む(その123)]

(3)信は道の元とす

さらに『華厳経』からの引用がつづきます。

またのたまはく、「信は道の元とす、功徳の母なり。一切のもろもろの善法を長養す。疑網を断除して、愛流(あいる、愛欲の煩悩)を出で、涅槃無上道を開示せしむ。信は垢濁(くじょく)の心なし。清浄にして憍慢を滅除す。恭敬(くぎょう)の本なり。また法蔵第一の財(たから)とす。清浄の手として衆行を受く。信はよく恵施して心におしむことなし。信はよく歓喜して仏法に入る。信はよく智功徳(智慧と福徳‐布施・持戒・忍辱・精進・禅定)を増長(ぞうじょう)す。信はよくかならず如来地に到る。信は諸根をして浄明利ならしむ。信力堅固なればよく壊することなし。信はよく永く煩悩の本を滅す。信はよくもつぱら仏の功徳に向かへしむ。信は境界において所著なし。諸難を遠離して無難を得しむ。信はよく衆魔の路を超出し、無上解脱道を示現せしむ。信は功徳のために種をやぶらず。信はよく菩提の樹を生長す。信はよく最勝智を増益す。信はよく一切仏を示現せしむ。このゆゑに行によりて次第を説く。信楽、最勝にしてはなはだ得ること難し。乃至

ここでその功徳が謳いあげられている信は広く仏法への信ですが、親鸞はこれを本願の信として聞いていることは言うまでもありません。

普通に仏法への信が説かれるときは、それが仏道修行の根本となるということであり、ここで「疑網を断除して、愛流を出で、涅槃無上道を開示せしむ」と言われているのも、これから仏道修行をして涅槃無上道をめざす上で疑網や愛流といった障礙物を取り除いてくれるという意味です。それは仏道修行をする上での心構えとしての信ですが、本願の信はそれとは似て非なるものであることに注意が必要です。「疑網を断除する」ということで考えてみますと、心構えとしての信の場合は、疑いの心が「起こらないようにしなければならない」ということですが、本願の信の場合、疑いの心は「起こりようがない」ということになります。

心構えとしての信とは「自力の信」ですが、本願の信は「他力の信」です。


タグ:親鸞を読む
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