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かならず仏となるべき身となれる [「『証巻』を読む」その79]

(6)かならず仏となるべき身となれる

曇鸞が『十住論』のこの箇所に注目したように、親鸞もそこに出てくる「歓喜地」ということばに鋭く反応し、さまざまなところでこのことばをつかっています。『高僧和讃』の龍樹讃では「本師龍樹菩薩は 大乗無上の法をとき 歓喜地を証してぞ ひとへに念仏すすめける」と詠い、この「歓喜地」の左訓として「歓喜地は正定聚の位なり。身によろこぶを歓といふ、こころによろこぶを喜といふ。得べきものを得てんずとおもひてよろこぶを歓喜といふ」と書いています(『一念多念文意』にもほぼ同じ言い回しが出てきます。第6回の(9)で「得てんず」の意味について考えました)。歓喜地は正定聚の位であり、そして正定聚とは「かならず仏になるべき身となれる」(『一念多念文意』、左訓)ことですから、「得べきものを得てんず」と言わなければなりません。だからこそ初地は歓喜地とされるわけです。

ここであらためて考えておきたいのは「かならず仏となるべき身となれる」ということです。転輪王子の場合は「かならず転輪王になるべき身となれる」のですが、しかしどうして転輪王子は自分が「かならず転輪王になるべき身となれる」ことを歓喜することができるのでしょう。転輪王となるのは「これから」のことであるにもかかわらず、「かならず」と言えるのはどうしてか。それは転輪王としての「相」が「もうすでに」そなわっているからです。「相」とは「しるし」でしょう。まだ転輪王ではありませんが、もう転輪王の「しるし」がついているのですから、「かならず転輪王になるべき身となれる」ことを歓喜することができるのです。

それと同じように、初地に至ると「かならず仏となるべき身となれる」ことを歓喜することができるのは、そのときすでに仏の「相(しるし)」がついているからに違いありません。仏の「相」といいますと、いわゆる三十二相が頭に浮びますが、そのような目に見えるものではありません。ですからそれは他の人にはまったく分かりませんが、本人には紛れもない「しるし」がついているのです。その「しるし」とは「ほとけのいのち」に摂取不捨されていることです。


タグ:親鸞を読む
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