SSブログ
『ふりむけば他力』(その64) ブログトップ

「わたし」と「世界」 [『ふりむけば他力』(その64)]

(3)「わたし」と「世界」

 さて、デカルトはこの哲学の第一原理の意味することを吟味してこう言います、「私は、私が身体をもたず、世界というものも存在せず、私のいる場所というものもない、と仮想することはできるが、しかし、だからといって、私が存在せぬ、とは仮想することができない」と。なぜなら、私が存在せぬ、と仮想した途端、そのように仮想している私がそこにいるからです。このように私の身体も世界も存在しないと考えることはできるが(すべて夢のなかのことかもしれませんから)、しかし私が存在することは疑いの余地がないということは、私という存在は身体や世界の存在とはまったく異質であるということを意味します。
 デカルトは「私はある」ことを確認したあと、次に神の存在証明にとりかかります。そして神の存在を媒介として、これまでその存在を疑ってきた身体や世界についても、それらが確かに存在すると信じていいと結論していくのですが、いまそのプロセスに立ち入ることはしません。ここで注目したいのは、第一に、これまでの哲学(スコラ哲学)では神の存在からすべてが導かれてきましたが、デカルトは私の存在から神の存在を証明していること、そして第二に、私といわれてきたのは「精神」であり、それは身体や世界といわれる「物体」とはまったく異なる実体であるということです。第一の点は神中心の中世的世界観から人間中心の近代的世界観への転換を意味し、第二の点は精神と物体の二元論が打ち出されたことを意味します。
 この二元論を平たく言い直しますと、「わたし」は「世界(身体を含む)」の外にあって世界から超然としているということです。「わたし」は神にとって代わるわけではありませんが(世界を創ることはできません)、「世界」から超然としているという点で神と似た姿をとるのです。この構図を仏教と対比しますと、鮮やかなコントラストをなしています。仏教では「これがあればかれがあり、これがなければかれはない。これが生ずればかれが生じ、これが滅すればかれが滅す」と説かれ、すべて存在するものは他のものとのつながりにおいてあり、その関係から自立してそれだけとして存在するものは何ひとつないとされます。これが縁起ということで、そこからしますと世界から超然としている「わたし」などというものはどこにも存在の余地がありません。これが無我の思想です。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『ふりむけば他力』(その64) ブログトップ